kujin.net

開発日記のようなもの

こんにちは、僕です! 死にそうとかなんとかいっていたけれども、なんとか無事にコミケいってこれました! いま、オフトゥンの中からこの日記を書いています。簡単な生存および自宅帰還のご報告です。

30日当日の日記を見てサークルスペースに来ていただいた方もいて、僕もびっくりというか本当にありがたいことです。開発日記ちゃんと更新しておくれよ〜、というメッセージもいただきました。ホントに、このサイトにアクセスは存在するのか? くらいのつもりでやっていたので、これにもビックリです。

個人的には好き勝手書けて面白い側面もありましたけれど、ゲーム内容を期待してこのサイトにいらっしゃる方が実際にいると判明した以上、僕も、やっぱりこのサイトにはゲーム内容が必要なのだと思い直しました。僕(defplus)以外のスタッフもみんなそう思っていたようです。「とりあえず最低限サポートのページだけでも作ろう」とか、いや、全くその通りだった……。みんなよく気付いてくれるええ子たちや…… Σ( ;p;)⌒°ウッ

というわけで、本日、2014年末日をもって、サークルの公式サイトを日記だけにするのは終わりにします!

来年からは1ページでも1文字でも、なんか日記だけじゃないサイトに少しずつ育てていきますので、また、よろしくおねがいいたします。カイワレの芽がやがて世界樹となっていく様を見届けてやってください。

皆さまの次の1年にも、発展がありますように!! それではよいお年を〜

こんにちは、僕です! 今回は全く余裕がなくて当日告知になってしまいました。スミマセヌ……。

もっていくものは、クォータニオンの最新版(1000円)、サントラ(1500円)、あと無料配布の攻略本とふぐあんこうステッカー(50円)です。

ゲームは、現状の最新版です。C86で頒布したclassic版の改良版です。微妙にパフォーマンスなど改善されているはずではあるのですけれど、ほぼ同じものです。予定全4編中3編まで遊べるもので1000円です。過去のバージョンを持っていらっしゃる方はパッケージ持ってきていただれば過去の購入価格分を割引します。……といっても当日の告知でディスク持ってこられるはずもないので、サークルスペースで申し出ていただければ簡単な確認をしたあとで割引をいたします。(割引の結果、価格が200円を下回る場合は、パッケージ原価分として200円だけご負担ください)

ところで前回の夏コミでは、ゲームディスク同梱のzipファイルが壊れていたということもありました。希望のある方はゲームディスクをこの今回持っていく最新版と交換します。……といってもやはり今日の告知で前のディスク持ってこられるはずもないので、申し出ていただければ差し上げます。(これは通常の割引ではなく交換対応ですので、パッケージ原価負担分の200円はいただきません) また、来れない方にも後日、無料で現行版までアップデートできるパッチをこのサイトでお配りします。

サントラはC86(前回の夏コミ)で頒布したものと全く同じです。40+α曲収録3枚組ピクチャレーベル仕様です。1500円です。ゲームとセットでお買いいただけると1000円+1500円で2500円のところが、2000円になります。

無料配布の攻略本は、中身もページ数も同じでサイズを半分のA6で印刷してみました。しかも、半光沢紙をつかっているので収録のカラーイラストが綺麗です。コンパクトで荷物にもなりませんので、ぜひゲットしていただければとおもいます。

ふぐあんこうステッカーは新種はないものの、レア種を多少、増産しました。未入手のふぐあんこうがあればハンティングしてください。サークルスペースに来ていただければ誰でも1枚は無料でハンティングしていただけます。また、ゲームやサントラなどお買い上げ500円ごとに1枚差し上げています。そして単品50円で購入することもできます!!!!!なんてこった!!!!!

以上です。手際が悪くて大変申し訳ありませんが、このようにいたします。特にC86版の不良ディスク交換については、もしお近くに購入された方などに周知していただければと思います。

それでは、今日も寒くなりそうですが、ビッグサイトに来られるみなさま、お気をつけて。

Σ( ・p・)⌒°< 年末年始はフグ鍋でも食ってあったまろうな!!!

僕です。あしたのビッグサイトの催し物に備えて何か告知しようと試みましたが、精神的限界を迎えていて脳がプルプルしているので一度寝ます。あわよくば深夜にもう一度更新します。またお会いしましょう!!

つ、つかれた……

肉を食べます。

開発、楽しいです。

僕です。

疲れすぎて甘えん坊さんな側面を露呈してしまったのでしばらく謹慎します。

僕はモチをこねることでしか自分を表現できない哀れな深海生物なんだよ……

どもーっす。僕です。

そういえばもうそろそろ冬のコミケも近いのに、公式サイトこんな日記みたいなままでいいのだろうかとふと思うたわけですけど、かつてふぐあんこうアイコンしか載っていなかった時期や、半年おきに更新されていた時期があったことを思えばこれでもマシかなと思いました。なんかカタログとか見て、このサイトに飛んできてしまった方、間違いではありません。ここは九陣(kujin.net)の公式サイトです。あなたの操作には何の落ち度もございません。どうか、この現状をお許しいただきたい。

一生懸命モチをついていますので、年末には何かしらクォータニオン的に新しいものを持っていきます。あんまり誇張して期待を膨らませすぎると、『ブログに描いたモチ』になってしまいそうなので、ひかえめに。そこはかとなく続報をお待ちください。僕は(ほぼ)毎日ここで何か言ってます!

また特段申し上げることもありませんけれど順調です。

ただただ、今はタイピングの速度の問題に還元されつつある。

3日連続で全く同じことをしていました。

ほんと、長距離走みたいなものですね。だいぶ自分の身体に叩き込めて来た気がします。でも、途中で投稿したりすることはありません。きっちり10万字書いてからお届けします。では、今日もこんな感じで、すみません。さようなら~。

おととい言ってたことを実行しようとして死にかけている。

やっぱり長距離走は、走ってみないと分からないんすよ!!(血を吐きながら続ける悲しいマラソン)

今日は一日ゴロゴロゴロゴロしてました。

当初は(どこの?)もっとバリバリ活動して、もう、やる予定のこととかバッキバキにしてやろうと思っていたのだけれども、そうはいかなかった。

以下、言い訳です。実際にやってみると、想像していたよりも難しいことってありますよね。というか、「想像していたよりも簡単だった」ということは誰かが自分の代わりに工夫を施していた場合に限るので、独力で試みる活動は、全て必ず想像以上に難しい。経験を積むことで想像と実力は一致に近づくけれど、理想は必ず2歩以上先を行くので、どこかで自分の上達を諦めない限りは、やはり、常に想像よりも難しいことばかりだ、ということになるのでしょう。

「世界三大なんとなく見てしまうテレビ番組」の1つに、長距離走(マラソンや駅伝)の中継があると、僕は思っているんですけど、あれなんかまさに「自分にもできるかも」と錯覚してしまう好例ですよね。ときどき観客の中で並走してる人とかいますけど、テレビで傍目で見てる分には、なんかあれくらい自分も走れそうじゃないとかなんとなく思ってしまったりしません?

確かに長距離走でよくある時速20kmのペースって、つまり50mを9秒のペースですから、健康な人だったら瞬間的に出すことはそんなに難しくないですよね。でもそのペースを1kmも維持できる人はほとんどいない。僕だったらそれこそ50mでも走れるかくらいのところで息切れて戻ってこれなくなる自信(?)あります。

だから、何かそこそこ規模のあるものに取り組むときに、自分の都合のいい情報ばかりを引き合いに「これぐらいできるだろう」なんて思い込んだらダメですよね、という話です。長距離走で自分がどれくらい走れるかを、50mのタイムを基準に見積もるみたいな間違いを、脳内見積もりでは平気でしてしまいがちです。5kmとか、あるいは1kmでもいいから、適切な粒度で自分の平均的なパフォーマンスを測定して、それをアテにしていく必要がある。

さっき、長距離走の中継で「これくらい自分にも走れるんじゃない?」みたいな錯覚があるといいましたけれど、あれ、実際に走っている人だと、きっとそうはなりにくい、あるいはならないはずです。何故かというと、見ている人間の姿を、自分の体験に翻訳することが可能だから、です。

結局、自分の実像を正しく捉えるためには、常に自分を測定し続ける必要があります。この正しく捉える、というのが面白くて、頭を働かして何かをやる場合は、正しく捉え続けることで、能力実測値のほうが勝手に理想の状態に近づいたり、ときどき追い越してしまったりすることがあります。長距離走ではこうはいかないでしょう。

そういうこともあって僕は最近、毎日、日記を書いています。僕はだいたい1時間で2000字くらい書くことができるはずで、現状そのようなペースで日記を書いているので、ちょうど正しい像を結んでいます。僕の場合、単純な打鍵速度の限界(=肉体的限界)は8000字あたりにあるので、1ヶ月継続できれば4000字くらいまでは順調に伸びていくのではないでしょうか。週25時間100000字くらいのペースでゲームシナリオ・依頼書・仕様書などなど書けるようになれば、ぐっと自分の実現したいことを引き寄せられます。ただ、そうすると、1回の日記の1500~2000字という文字数は少なすぎるので、もうそろそろ、日記とは別の、より粒度の大きい訓練・測定が必要になるでしょう。

ちなみに、世界三大なんとなく見てしまう番組の残りの2つは、選挙速報の特番(の当選者数グラフ)と、ゆく年くる年の後にさだまさしが司会してるやつ、です。今年は3つとも近い時期にやりますね。

いつものように本屋に行って帰ってきていまパソコン立ち上げてこれを書いているのですけれど、そういえば、今日、ごく自然にこの日記を書き始めたので、(途中、ときどき何日か飛んでいるものの)習慣になってきたのかなと初めて思いました。最初の数日分や風邪引いてる時など、超手抜きで済ませた分を除いて、ちゃんと書いた日記は、何日分になったのかなと思って今数えてみたら15日分ありました。意外にありました。体感では5日分しか書いてないように感じてました。

「慣れに乗じて、いつの間にかたくさんやってしまったこと」っておそろしいなっていつも思います。僕がこれを人生で一番最初に感じたのは小学1~2年生の頃に公文式をやっていたことのことです。算数と国語のプリントをやっていました。毎日だいたい5枚とかいうペースだったのを、盆も正月もなくやり続けました。結局2年間で4000枚にもなっていて、これがもう紙束でできた「山」なわけですよ。すっげー!!! ってなりますよね。1000以上のオーダーの数は小学2年生だとまだ雲の上の存在なので、自分の中には自分で制御できない力が眠っているのではみたいな、右手がうずいて黒い炎が出るぜ的な気持ちになるのも、お分かりいただけるかと思います。

ところで公文式って算数は、計算を繰り返しやり続けるというの想像できると思いますけど、国語って何をやると思いますか? 算数⇔計算の関連性から、国語はきっと漢字の練習をするんじゃないかな、と想像したあなたはいい勘をしている。ただ、確かに漢字もやるんですけど、もう1つ、本当に繰り返し繰り返しやることがあるんです。それは何か? 読解問題? いやそんな難しいことはしません。何でしょう?

答えは、【文法】です。いや、文法といっても、中学3年生あたりでやるような、連体形が~みたいな体系的なやつじゃなくて、「文から主語と述語を取り出そう」みたいなほとんど自明でバカバカしいことをやるわけですよ。しかも気が狂ってるんじゃないかって回数これをやるわけです。2年間で……10000回くらい?

おそらく幼少期にこれをやったおかげで、僕は以後20年以上、日本語で困ったことはありませんでした。いや、日本で日本人として育って日本語で困ること普通ねーだろって話なんですけど、僕は3~5歳のいわゆる幼稚園の時期にイギリスにいて、帰ってきたばかりの頃は同じ年の子たちの半分くらいしか日本語はできなかったそうです。あの、無限に近い数の「主語と述語を取り出そう!」無しに僕はたぶん、本当は母国語にもっと苦労するはずだったと想像しています。

同じような体験に、自動車教習所にいったときの、初めて実車を運転したときにやった忘れられないある練習があります。「タイヤに向かって車で突撃して、ぶつかった瞬間にブレーキを踏む」これを1時間延々と繰り返しました。1時間ですよ?!なんでこんなことやるんだろうって思ったんですけど、ちゃんとあとで教官の人が教えてくれました。「脳に緊急時に急ブレーキを踏む回路を作るため」なんですって。どうも、初回時の僕の運転が非常に不安を覚える出来だったので、こいつには1時間くらいかけてでもこれをやらせたほうがいいと思ったらしいです。

これのおかげなのか、最初に免許をとってから約10年後に車を運転する境遇になって、いくつか危ない場面もあったのですけれど、全て事故を回避できています。無数のタイヤ突撃によってつくられた脳内回路が、時空を越えて(?)今も僕を助け続けているわけです。これってすごいですよね

僕はこの「分野の根幹を成す技能を」「アホみたいな回数繰り返す」ということの凄みを、ほとんど宗教に近いほど今でも信じていて、それが今、日記を継続して書いていることの主な動機の1つになっています。この話はお気に入りなので、またきっと繰り返し話すと思います。ホント、お気に入りなんですよ。なんで、思わず話が長くなりすぎてしまいました。今日はこのへんにしておきましょう。

(もう日付は気にしないことにした)

こんにちは、僕です。最近、服を着替えるのが面倒になってきました。といいつつも着替えないと自分が腐敗していくのを避けられないので、毎日着替えるのだけれども、何が面倒かというと、実際に着替える手間というよりは。どの服を着るのかを「選ぶ」のが面倒なわけです。

より正確にどういうことが面倒かというと、服を選ぶとき、そこに「好きな服を組み合わせて君だけのオリジナルなコーディネートを作ろう!」みたいな暗黙の圧力があることが面倒なわけです。じゃあ、何か服を組み合わせよっかとなっても、そんな何か着ることによって特殊効果が出るような服があるとは僕には思えないわけです。基本地形のカードだけキログラム単位で押し付けられて「この中から君だけのオリジナルデッキを作ろう!!!毎日!!!!」とかいわれても困るじゃないですか。

「仕方ないからせめてなるべく似たような絵の島だけ集めてみるか……」みたいな感じで、似たような色の上と下を探して、似たような形の靴下を組み合わて毎朝はいているわけです。いつかこのカードゲームをやめてやろうと常々と思っていました。

そして、ついに僕は考えつきました。ゲームシステムに対する反逆です。この支配からの卒業です。僕は、全く同じ服を5セット買って、特に何のイベントもない平日には毎日同じ服装をして出かけてやろうと考えました。(休日にそれらを洗濯、リセットして、その間は家でジャージで過ごす)すごい完璧だ、もう毎日何着ていくか悩まなくていい。自由意志と引き換えに、僕は心のなかに秩序と平穏をもたらすのです。好きな思考停止を集めて、僕だけのオリジナルディストピアをつくろう!

さっそくアマゾンか何かで、機能的で洗濯しやすくて5着買っても財布が空にはならないような、上の服と下の服と靴下を選んでみる。服を選ぶのもこれが当分の最後だと思うとちょっと面白かった。色々選んでいるときはホントにデッキを構築してるみたいな感じだった。楽しめた。そうか、こうやってみんな服を選んで買ってるんだな。

とりあえず1着ずつ1セット買って家で着てみることにした。なんか暑さとか寒さとか弾くやつで、(下着の上に)これ上下1枚だけでも山を登れるようなやつを買った。実際にこれにコート羽織って会社行ってみたけど、今の季節の寒さでも全然大丈夫だわ。何より朝の支度が、なんだかんだ10分かかってたのが10秒で済むのが素晴らしい。これはいけるぞ!!!!

そんで、ここまでやってから気づいたんだけど。

これ、ただの『制服』やん……。

そうかどうりで中学・高校の僕は、なんかこう、着るものに困らなかったはずだわ、あの頃の僕は制服に守られていたんだね……。ありがとう、制服。君のことは忘れた。

そんなわけで、買ったこの1セットを5セットに増やすかは、今とてもなやんでいます。

しれっと日付を飛ばしました。

さっきカレーをあっためて食って、コッフィーを流し込んでいまここにいます。昨日からレンタルサーバの移行を進めてて、明日(つまり11月末)までに完了しないと、kujin.net何も表示されないことになっちゃうんので急いでいるのだけど、またヤバイことに気づいてしまった。新しく申し込んだいちばんやっすいプランでMySqlが使えない。MySqlが使えないとWordpressが使えない。いや、使えないっていうか別に使えないわけじゃないけど、別のデータベース使うってことになると、簡単には引っ越しできない。

なんのこっちゃ分からんかもしれないから、家の引っ越しで例えると、家賃が安いからという理由で群馬県の家に引っ越そうとしたら、その群馬の家にコンセントが無かったみたいな話だ。

それで、いま、別のデータベースを使うか、そもそもWordpress使わないでもっと簡単にサイトを作るかみたいなことを考えている。例えると、この群馬の家で、ディーゼル発電機を使うか、いっそ水道とガスだけで生きていくか、みたいな二択にぶち当たっていると想像してください。

いや、それもう、そもそも元の都会のの家に戻るか、群馬でも、もうちょっといい家に引っ越したほうがいいんじゃないの? って感じなんだけど、いや、もう何か都会とか疲れたし、このシンプルな環境がちょっと気に入ってきたんだ……18時過ぎにしみずスーパー(群馬を支配しているスーパー)に行ってタイムセール品探すのが、今の俺にとっては身の丈にあった最高の癒やしなんだよ……みたいな心地になってて、もう、戻りたくなくなってるわけです。

なんで数日後、kujin.netがはりがね君で描いた四コマみたいなサイトになっていたとしても、「あれがいまのdefplusなんですね……」って目尻に涙浮かべたりしながら、そっと見守っていてほしいです。~トゥルーエンド~

今日はレンタルサーバの移行で一日が終わってしまった。

最近のレンタルサーバはいちばんやっすいプランでも、マルチドメイン(一つのサーバスペースでドメインが2つ以上運営できる機能のこと)対応しているということに気づいて、今までのそこそこのお値段のプランから、いちばんやっすいプランに移動するということをやっていました。

口半開きにしながら大量のファイルをダウンロードしてアップロードしてパーミッション変えて、htaccessいじっていた。しかし、その途中で「その作業を行っていた4時間で仕事行っていたらもらえた賃金」≒「浮いたレンタルサーバ代1年分」ということに気づいてしまって、半開きになった口から魂がちょっと漏れた。

ところで、AmazonWebServiceみたいなのを使えばもっともっとゲロ安にできるんじゃないかと思ったんだけど、あれは完全従量課金制なのに課金上限を設定する機能を用意してないのが怖くて、結局使えなかった。普通に使ってる分にはたぶん年間で数百円もいかない。でも、例えば、僕がCD1枚分くらいのゲームの体験版を置いたとして、うっかりどこかの誰かがそれを10000回くらいダウンロードすると僕は経済的に死んでしまうことが分かりました。

課金額検知のAPIを使って自己防衛してくれっていうんだけど、それテストできないって(失敗したら死ぬから)、そういうリスクを胴元が負わないというのが気に喰わないので、僕は下りました。あんな頭のいい奴らが課金上限設定の機能を実装できないわけがない。わざとやってる。"aws billing cap"あたりで検索すれば怒れるユーザの集いが見られるぞ!

めちゃんこ眠いっす!!

今日は久々に一日中活動しました。

昨日の思惑通りに、手辺り次第掃除していました。もちろん、普通の意味での部屋の片づけもやりました。それとは別に「使っていない銀行口座を解約しに行く」という、そんなに日常的には行わないような掃除もしました。

それはもう10年以上使っていない口座で、届出印が何だったかも完全に忘れてしまったのだけど、とりあえずダメ元で銀行の窓口へ行ってみたんです。どうも何とか解約進めてもらえるようでした。こういうケースでは、まずいったん印鑑紛失届けを処理して別の適当なハンコへと口座の届出印を切り替えをしてから、そのハンコで解約する、という手順で解約手続きを進めるんだそうで。なるほどね。このときのハンコは、手続き中のわずか1分程度しか効力を発揮していないわけで、なんか化学反応の触媒みたいで面白いですね。理論的には例えその触媒役のハンコがレンコンだったとしても、全てが眼前の処理で完結するのでセキュリティに穴はないということになりますね。ここは笑うところです。

そんなわけで、その適当な触媒役のハンコを押して、口座解約手続きを進めておったわけですけど、なんと! 偶然にもただの認め印だったはずの触媒ハンコが、十数年前の届出時に使われたまさしく届出印であったことが発覚して、ハンコ切り替え手続きをキャンセルし、元触媒役であったところの本来の届出印で解約手続きを進め直すというハプニングも有りました。1に1をかけ続けて1を出力し続けるような、めくるめくトートロジーの世界がそこにはありました。

ところで、その閉じた口座は、もともと学生の頃にバイトをしようかと、バイトの初回研修に行って、その場で口座も作ったものの、結局、一度もそのバイトには行かなかったいわくつきのバイト用口座だったので、残高などカスほども残っていないだろうと思っていたのですけれど、十数年ぶりにシメの記帳してみるとそのバイト先から初回研修分の給料がちゃんと3000円くらい振り込まれていて……なんだか非常に申し訳無さを感じつつも、10年越しのバイト代をありがたくちょうだいしました。

家に帰ってから「なんか昔の口座に3000円ちょっと残ってたよ!ラッキー!」ってオヤジに言ったら、「俺も宝くじで3000円ちょっと当たってたわ!(30000円分買って)」と嬉しそうな答えが返ってきたので、俺はオヤジをグーで殴った。

元気になりました。そして元気を通り越して過剰に頭が働いています。それでもまだ、頭の奥のほうが沈んでいるというか、少し寝不足なんですけどね。

寝てる最中はオフトゥンの中で元気になったらどういうことをやりたいか、ずっと天井orまぶたの裏を眺めながら考えていました。僕がやりたいことは、根本的には1つだけです。それは「掃除」です。

「掃除」っていっても、僕が「掃除」と考えているものは、みなさんが考えているよりもかなり広義で、例えばピクロスは、あれは僕は掃除だと思います。基本的に完全にやることが決まっていて、自分の脳内関数を媒介にして、マス目をあるべき姿に戻していくだけなので「掃除」です。

プログラミングのリファクタリングも「掃除」です。リファクタリングというのは大ざっぱに言えば、プログラムの機能を保ったままより人間が《自然に》認知できる表現へとプログラム洗練させることです。これも「掃除」です。

あと、使ってないアプリをアンインストールしたり、使っていないWebサービスを解約したりするのも「掃除」です。もちろん、いわゆる掃除・洗濯・ゴミ出しを含む家事全般も「掃除」です。

要は「こうあってほしいという理想状態を達成するために、たくさんの選択肢を無理やり脳内から引き出して峻別決断を繰り返す」というのが「掃除」です。なので結局、ゲームを開発するのも超長い目で見た「掃除」だったりするわけです。

僕は実は放っておくと、かなりの時間を自然と「掃除」に費やしてしまう人間で、本能的に「掃除」の中毒になっているのだと思います。僕の本性は「掃除」なんだなーということを感じます。

そう、僕は、《暇な時にやっていることがその人の本性》だと、いつも思っています(この言葉は受け売りです)。自分を見直すときも他人を見るときも、基準は全く同じです。人間、そんなにパーソナリティとかけ離れたことをやっても、どっかで嘘が混ざってくるもんです。

だからこういう日記みたいなのを垂れ流すの、非常に本性に逆らってて心苦しい。全部書いてから文章を直している時の方がまだ幸せです。でも、こうして無理でも日記書いておかないと、そもそもの「理想状態」が何なのか見失ってしまうときがあるので仕方ありません。超広義の掃除、動機の掃除をしているわけです。だからこれからあらゆる掃除を再開する前にも、書くことに体を慣れさせなければいけなかった。

まだ眠いっす。体が眠りを欲している……

だいぶマシになって来ました。医者から出してもらう薬は効きますね……4日分出してもらって数百円というのも安いっす。

そういえば、医者にもその場で薬を出してもらえるところと、処方箋だけ出してもらって別の(なぜかたいていすぐ隣にある)薬局でもらえるところと2種類ありますね。

なんで薬もらうだけにわざわざ隣まであるいていかにゃならんねん、なんかパチ屋の三店方式みたいな脱法のにおいがする……ので、そこら辺どうなってるのか調べてみました。国の方針で「医薬分業」というのが進められた結果、医者と薬局は別々になっているそうです。薬局を別に持つほうが、色々お得らしく、新しくできる医者はだいたい隣に薬局を建てるんだとか。

本来の「医薬分業」の狙いは、例えば医者が悪意を持ってめちゃくちゃたくさん薬をつけて薬代ボッタくろう! みたいなケースを防ぐために、薬局の機能を独立させよう、というところにあったらしい(政治の三権分立みたいだ)こうすれば医療費を軽減できる! と官僚の方々は考えたらしいです。

しかし、実際にはそんなに医療費は減らなかったらしい。いや、まぁ、そうだよね。だってほぼお隣に建ってる一蓮托生の薬局が、「宿主」である医者の処方箋をまともにチェックしてくれるわけないじゃん……。そんなわけで、狙った通りの医療費削減効果はなく、意味もなく並んで二軒分建ってる医者と薬局の維持費を、回りまわってみんなが払っていて誰も得してないという悲しいことになっていたのでした。

ついでだから「お薬手帳」の話をします。数年前から、薬局に行くとお薬手帳というものがもらえるようになりました。処方された薬の履歴を物理的な手帳に記録してくれるというサービスです(サービスと言いましたけれど実は有料です、飲み屋のお通しみたいなやり方ですね。とはいえ1回十数円なので、本当に機能しているなら妥当な値段のサービスだと僕は思います。)「お薬手帳」は大抵の薬局ならどこでも使えます。各薬局をまたいで薬の履歴情報を共有して、薬の飲み合わせなどをチェックしてくれるわけですね。こういうのは医薬分業のメリットに挙げられると思います。

……なんですけど、でも実際に、飲み合わせの問題があったら、再度お医者さんに行ってあらためて診察してもらって、別の薬を処方してもらわなければならないわけです。当然、二度手間になります。だから、実際にはお医者さんの方でも問診票に「いま飲んでいる薬は何ですか?」って聞く欄が必ずあって、毎回毎回思い出して書くのもダルいので、(医薬分業の結果うまれた)お薬手帳を、医者に見せて処方箋をもらうという運用をしています。役には立っているのだけど、なんだかチグハグだ。もういっそのことカルテごと保険証に入れてくれればいいのに……。

命からがら医者に行ってきて薬をもらってきました。たくさん汗をかいているので、週明けまでには治りそうな雰囲気がある……

体が弱っているとあっという間に部屋が汚れてくるということに気が付きました。部屋が掃除出来ているのは生命力の証かもしれませんね。風邪が治ったらとりあえずまず部屋を片付けたいっす。

また風邪引いたのかよ!!

まずい。のどがいたい。

よっすどうも!今日も本屋さんに行ってきました。

本屋さんに行く方法は主に2通りあって、徒歩と電車を組み合わせる方法と、もう1つは車を使う方法です。今日は後者を採用しました。

車で本屋さんに行くときの利点なのは、あまり体力と時間を使わないでササっと行って帰ってこれることです。(徒歩と電車を組み合わせるとなんだかんだ半日はかかります。)

一方で、欠点は、駐車料金の都合であまり滞在に時間をかけられないということです。行ったら行ったでだいたい、色んな本棚を探索したり考えたりするので、いつも無料時間分(90分~120分)をギリギリまで使いきってしまいます。興味尽きるまで本屋に居るには、あまりにも短すぎる時間です。

そんなわけで「時間不足で消化不良になるくらいなら」と、最近は徒歩と電車を組み合わせて半日本屋巡り+αするというのが主流になっています。行き帰りも電車の中で本を読めるというのも利点です。

それでも、僕は怠惰に屈して車で行くルートを完全に捨てることができません。本屋に行って自分の願望を物質化するのは怠惰な側面を既に含んでいるからです。怠惰が伸び縮みする余裕が無くなったときには、本屋に行く動機もきっと失われていることでしょう。

さて、最近は、自分の怠惰な側面に囲いをつけて、限定された領域で遊ばせ醸成させたい、というようなことを考えています。18歳頃までに僕は自分が怠惰な人間であることを確信していました。全てのことで90点を取るような万能な頭の良さ、全方向で戦えるだけの知的体力がありません。

次に、26歳頃には僕は根本的に誰とも戦いたくないのだということに気づきました。つまり、なるべく人がいない方向に自分の専門を開拓し、徹底的にコンペティションを避ける、という人生上の戦略を設けてこれまで過ごしてきました。

さらに続いて今現在の34歳になるまでの8年間に僕が思い知らされたのは、そうして誰も居ない方へ居ない方へと進んでいった先に、自分が本当に望んでいたものを掘り当ててみると、結局それはものすごく普遍的なものだった、ということです。具体的には、数と計算機と認識の3つです。

3つといっても、結局すべて1つにつながっていて、無理に1つのトピックにまとめると、それは「情報素の相互作用と各境界で現れる表現」ということになります。例えば、ゲームのメカニズムと、ディスプレイ上のUIと、プレイヤーのクオリアと、3つの層でそれぞれどう情報素が動いているのか、というようなことです。あるいは、イイタイコトと、それを元に書かれた文章と、読み手の解釈と、の間で何が起こっているのか、ということです。

でも、この話は適用できる範囲が広すぎて、とても自分一人ではカバーすることができそうにありません。必然的にコンペティタもたくさんいます。なので、僕はここを深堀りして、1つだけ具体的で皆の中心的興味から離れたものを取り出して、世においていくことを、これからの僕の一番根底に置くテーマにします。この1つのテーマが、そのときどきで表現を変えて、日記やゲームの形で、皆さんの前に現れてくるようにしよう、というのが僕がこれからやろうとすることです。

具体的なものをつくるので、怠惰な自分は怠惰なりに、意図的に狭くした自分の興味範囲の深堀りをします。代数構造の表現論、計算機プログラムの構造と解釈、自然知能のモデリング、この3つです。これでもまだまだ広すぎるのですけれど、僕は怠惰なので、おそらく解決するべき課題は、自然と狭い領域にクリープしていくでしょう。

それでも、逃げて逃げて逃げた先に、18歳のときに一番得意で一番やりたかったことに戻ってきて、結局、例え死ぬまで無名で、負け続ける道を行くのだとしても、僕はこれをやらずに人生を終えることは出来ないのだなと思って、変な覚悟がわいたの同時に、ちょっと笑ってしまいました。

そんなことを、夜、本屋からの帰り道で、ひとり、静かに、ひそやかに、車を運転しながら考えていました。こういうことができるのも、車を使って本屋に行くことのいいところです。

(日記上の日付と現実の時間が乖離してきたので調整)

元気です!

元気になったので、明日からまたお仕事っす。今日は僕の仕事について話をします。僕は今、中小企業(オヤジがやってる町工場)の社内システムエンジニア「みたいなもの」をやっています。

僕の会社における仕事の目的は「いまだに毎月10000枚ほど紙の書類が発生し続けている昭和風の事務態勢を何とかしてくれ!」という経営課題(オヤジのリクエスト)を解決することです。実際には『ホームページ』(Webサイトのこと)をちょこっと更新してくれとか、エクセル分かんない所あるから教えてとか、メールが急に見れなくなったから何とかしてとか、経理のデータ打ち込むとか、そういうのもやっています。

僕はかつて、広くプログラミングの受注開発をして暮らしていました。生活は安定する一方で、なかなかゲーム開発に時間が取れないフラストレーションがありました。その後、いったん受注開発をバッサリやめ、貯金を崩しつつ、単発で家庭教師を請け負って財布に回復魔法を打ちつつ、という特攻的自転車操業的ゲーム開発を数年続けていたところ、今度は生活が危うくなってしまいました。

今の仕事は、これまでのいずれとも違い、会社に出勤して、日常的に多数の人との付き合いをしなければならないので、不慣れなためか今までの3倍疲れを感じます。(また、事前に予想はしていたものの、僕がオヤジの工場で働くことで従業員の方々に「ついに跡取りがやってきた」みたいな誤った期待を抱かせてしまっているのも、心苦しいところです。)月~金で平均出勤時間は4時間くらいですけど、そんな事情もあって、半日の出勤後もへろへろで帰ってきます。家に戻ってから、掃除と洗濯とゲーム開発をしています。最近はそんな毎日です。

僕は今でも、ゲーム開発のプロになろうとしています。それは肩書がほしいという意味ではなくて、単純に、ゲーム開発に100%の時間を注ぎつつ、手伝って下さる方々に十分な謝礼も払いつつ、生活が維持できるようになりたい、というそれだけの意味です。でも、そのためにはゲームが今の35倍売れるようににならないといけません。なかなか遠い道のりです。

今はこうやって半分仕事やりながら何とかしていくしかありません。でもこれはこれで、いいところがあります。とりあえずメシに困ることはありませんし、読みたい技術書もだいたい揃えられます。ゲームの謝礼も毎月いくらかずつ確保していけます。働いた分、間接的にゲームが完成していくと考えて、モチベーションにしています。

あと2年前に亡くなった母の遺言が「お父さんをよろしくね」だったので、今の仕事を通じて自分なりに応えてあげられているかな……と思うところもあります。「あんたの人生は、あんたが決めやなあかんよ」とも言ってましたね。僕は自分がなりたいものになります。不肖の息子、今やれることをやっているよ。

完治しました。

朝、自然にメシを求めて台所に菓子パンを自発的かつ自然発生的に漁りに行ったくらい元気です。昨日の時点では、メシにありつきたいVS起き上がるのもだるいの葛藤の末になんとかみかん1個食ったのが精一杯だったことを考えると、驚きの回復具合といえるでしょう。また、昼には昨日の夕食のカレーが2.5人前くらい残っていたものを温めなおして食べたのだけれども、温めているうちに、ここのタイミングでこのカレーを残したら、夜には確実に廃棄処分されることになるという確信が芽生えたので、無理やり食べました。おいしかったです。食欲も十分だ。

寒くなってきましたね。僕は、11月半ばまで半袖で外出します。また、その報いとして毎年70%の確率で11月に風邪をひきます。つまり、適切に長袖を着ればすむ話ではあるとは承知しているのですけれども、なんとなく、こう、空冷しないとやっていけないみたいな気持ちがありますよね?(?)暑がりなんです。例えばコッフィーを常飲しているので、常に自分の体温を高めているようなところがあって、過熱を防ぐために本能的に厚着を避ける傾向にあります。CPUがやられてはヤバいという直感が、僕をヒートシンクに駆り立てるわけです。

全然関係ありませんが、開発意欲が高まってきたので、この臨時サイトにもいよいよ2コンテンツ目を加えようと考えています。どっかにあった吐血実績的なやつです。開発具合に直結して吐血ゲージが伸びていくようなやつにします。

Σ(       ・ p ・      )⌒°<伸びるぜ!!!

ちょっとよくなってきました。

どうも、インフルエンザの予防接種を打った直後に普通の風邪を引いてしまって、よくないことになっていました。熱はないけれどくしゃみばっかりしていました。新しいパジャマを着ています。

僕は、寝ています。

僕は、元気ではありません。

昨日というか今日の日記はおやすみします。

なぜかというと僕がとても疲れているからです。もうしわけない。

夕方、会社から家にかえってくるときの僕の足取りはモブゾンビそのものでした。ハウスオブザデッドだったら画面に登場して0.5秒で肉塊になっていたでところです。これが現実で本当によかった。

おやすみなさい。

今日は本を読んでいました。

あれだけの頻度で本屋に行って本を仕入れているのですから、どこかで読む時間がなければ辻褄がありません。テキストを密かに廃棄することによって始末をつけるということは可能ですけれど、僕の場合は、そういうことはありません。買った本は責任をもって必ず目を通します。

目を通すと言いましたけれども、テキストが本の表面から自分の収まるべきところに収まっていく「読む」というプロセスの詳細については、単に「読む」と一言では言えない複数の側面があるのだ、と感じています。食べるという行為が消化とかカロリーだけでは済まされないのと同じです。

食べたものがどうなるかですら、栄養に対応する酵素があってどこでどう体に吸収されるか、ということを学校で習います。一方で、読むことについて、取り込んだテキストがそのあと体の中でどうなってしまうのかは、食べることの秘密よりも奥の世界でしか扱われていません。それはまず認知神経の科学に属します。パターン認識です。何と何が隣にあるのか「カラスとカエル」「カラスと黒」「カラスとゴミ袋」、概念モデルとしては要素と要素の重み付き有向グラフが脳内で構築されている、ということ、それらの概念的な連想の単位や層がどのようにニューロンのつながりで実装されているか、というようなこと。

でも、胃腸の調子ですら考慮に入れながらラーメンを食うことすら困難ですから(昨日は結局ラーメン4玉食って食い過ぎで半日苦しんでた)、実際に読むときにはそれら認知の仕組が意識されることで、読む行為のパフォーマンスに影響を与えることは皆無といっていいでしょう。読むときは他に何も考えません。考えているときに何か読むことはできません。読むときは脳の、特に一時的記憶を扱う狭い狭い部分を、読むテキストに明け渡してやる必要があります。

しかし、今日はそのテキストへの明け渡しがとても困難でした。99.9%のテキストは情報を摂取してもらう意図で書かれていますけれど、今日読んだものは稀な0.1%の情報の廃棄を促すタイプの本でした。いわば下剤のようなもので、読む度に海馬が真空になるので、そこを埋めようと何かを考えずにはいられず、なかなか腰を据えて読むことが出来ませんでした。

今僕がまさに例外的な読書体験を引き合いに出したのかというとそうではなくて、何かを読む度にこういう「その本ならではの」困難にいつもぶち当たっています。「読む」プロセスの難しさは、こういうところにあって、つまりおおよその読んだものが読んだ後どうなるか、の仕組は分かったとしても、結局『食材』をどうしたいのか、というスタンスに応じて全く結果が異なってくるところです。

食べたものはいずれにせよ消化されますけれど、読んだものがさらにどう消化されるかは、読み手の能力や既に構築されたメンタルモデルに拠るところがとても多いということです。いわば食材に対して各個人が全く異なる消化器官を持っているようなもので、それゆえに読書行為を一般化することは難しい。「早食いと速読」くらいのもっともらしい類推でも、もうお互いに正しい比喩となっていないくらいです。

また、読むことについて書くことが難しいのは、それが自己言及的でどこかお高く止まった、異国の料理に作法ごと無理やり付き合わさせてしまうような、尊大さを避けられないからです。今日の日記、読むのが困難ではありませんでしたか?

ラーメン食ってきました。

ラーメン屋へ行く、あるいはラーメンをつくって食べる頻度は、ずいぶん下がりました。最大では週に10食ラーメンという時期もありましたけれど、それは都内に住んでいた頃の話で。外食のラーメンだけでも十分に食事のバラエティを確保できる環境にいたからこそできることです。

でも、もちろん都内はラーメン屋以外にも(お金さえあれば)いいものが食える環境でもあるので、あの頃の僕はラーメンというカテゴリーに限定せずに食べ歩くことも出来たはずです。なぜラーメンにこだわっていたのか、というのはよく分かりません。こういうほとんど意識にあがることのない固執は、他にもよくあります。僕の過去の一時期には、プログレばかり聴いていたことや、推理小説ばかり読んでいたことが、ありました。

自分が為したことを思い出しながら並べると、そこには必ず偏りが見受けられると思います。何かを思い出すときは別の記憶からの連想で思い出すのがやりやすく、同じような経験ばかり手元にかき集めてしまうので、必然的に思い出はあるテーマに沿ったコレクションになってしまうのは避けられません。

同様に、これから何かをしよう、行動を選ぼう、とするときにも、引き出しやすいアイデアから引き出してしまうので、前とよく似たようなことをしてしまう、というのはよくあります。前と同じラーメン屋に行って、理由なく同じ席にまで座ってしまう。慣れている方法を意識せず選ぶ、ということはまさに《学習》に他なりません。つまりこの傾向のおかげで僕らは、同じ物事に取り組むときに前よりもうまくやってみせることができます。

人間の選択がいつもある種の「必然性」を帯びている傾向は、人間の認知能力の根幹を成しているので、発生を避けることはできません。「どうしてこんなにラーメンばかり食べてるんだ?」と遅ればせながらふと気づいた、あのときに、僕は思い知らされました。今に至るまでその確信はますます深まりつつあります。(この確信も類推による学習である事実を避けられません)

ときどき、こういう傾向に抵抗してみたくて、意識して偶然を取り込むようなことを僕はやります。例えばラーメン屋に行って、新メニューがあったら、好みに合わないものでも一度は頼んでみる、など。でも、こういう戦略もやがて学習して自動化されると、まんまと新メニューばかり食べさせられていることに間もなく気が付きます。つまり、これも「新メニュー」という情報タグに対する固執を獲得したにすぎません。

僕が過去に行った「選択の必然性に対する抵抗=偶然の取り込み」の思いつきの中で最大のものは、高校生の頃、ふと自転車で学校とは別の方向に行ってみたくなって、この伊勢湾沿岸から東京まで行ってみようと思ったときのことです。ママチャリです。なんとか丸3日間かけて300km離れた箱根の手前あたりまで行けました。事前の予想に反して、僕自身よりも自転車のほうが参って、フレームが歪んで完全に回せなくなってしまい。そこで僕の抵抗は終わってしまいました。

そのとき僕が感じたのは「なんてクレイジーな体験だ!これで人生が変わった!」とかでは全くなくて、ただ単純に「疲れたな……」ということでした。特に得るものはありませんでした。「偶然と付き合うのは疲れる」ということがわかったので、次の日からはよく知った通学路をまた歩いていました。

でも、今でも「たまには疲れるのも悪くないな」と思っているので、遠くのラーメン屋さんに足を運んで新メニューを頼んでいます。

本屋さんに行ってきました。

僕が本屋に行く頻度は1週間に最低2回くらいです。多いと週に3,4回行っているので、おそらくこれは世の中の平均よりも高いはずです。こないだ親戚の男の子(成人済み)に本屋の話をしたら最後に本屋に行ったのは2年前と言っていましたから、世の中の平均はそのくらいにあるのかなと勝手に思っています。

僕がこんな頻度で本屋に行って何をするのかというと、なにか習慣的に買っている目当ての本がたくさんあって、発売日を待ちきれないでいる……というようなことではなくて、自分が何に興味を持つのかを確認するために行きます。よく人間観察というのがあるけれども、あれの内向き版です。そもそも僕は自分がどういう人間なのか未だにわかりません。ときどき僕は自分よりも他人のことの方がよく分かると思うことがあるくらいです。これは他人のことをナメすぎで、他人の行動原理を単純なモデルに当て込めることで安心する、自己満足の外向き版です。結局、自分のことも他人のこともわからないので、何度も本屋に行くことになります。

ロマンのある小説なんかで「情報屋」という怪しい商売があったりしますけれど、本屋はまさに組織的に運営されている情報屋さんと言えます。受け手の能力と少々のお金に応じて情報を提供する。この情報の受け手の能力というのが大事で……いや、能力というよりも状態かもしれない。どれだけ自主的に各種の情報に関わりあえるか、というのを、本屋に行くたびに試されている気がします。

例えば、本屋に行った結果として、最後にこれを買おうかな、と決めるのだけれども、そのときに手にとった本というのは、自分の願望が物質化したものだとも言い換えられるわけで、ここでもう本を買うための目的が半分くらいは達成されているわけです(世の中に積ん読が無くならない理由のほとんどはこれだと思う)

この「本屋巡礼=願望の物質化」の式を信じて、本屋にお百度参りするような生活を繰り返すうちに「この願望に対応する本はないだろう」ということを確認するために本屋に行くような応用も繰り出せるようになりました。もちろん行くからにはそのありえない願望に対しても近似解のような本を探そうとします。でも、内心では、そんな本は全く見つからなくて「該当の情報ついては、あなた自身の手で生み出していただければと思います」という趣旨のことを、僕の願望に応えてくれない無数の本の群に無言のプレッシャーで諭されたかったりします。

僕の本屋に対して投射する究極の願望は、自分の創作したい物語が既に本屋に置いてあるということです。この願いが叶った瞬間に僕が創作する意味はなくなるので、これは矛盾した願望です。だから自分の創作したい物語がまだないことを確認するために、執拗に本屋に行っている、という側面はきっとあるでしょう。でも、ここにある全ての本が「読まれない可能性」を食い破って既に存在しているということには、本当に頭が下がります。だから、僕も日記を書き始めたのだ、という側面は、あります。

今日は疲れてました。

2年位まえまでは疲れている場合『なんでやねん!疲れないように何か合理的解決を見つけなくてはならない!!』→『余計疲れる』みたいなことを繰り返していた気がするけど、最近は、疲れていることはいったん認めておいて、その中で何とかしていく、というようなスタンスを取る比率が増えてきました。

《疲れ》というのは、麻雀で例えると、いらんところで字牌引いてくるみたいなところがあると僕は感じていて、こういうときは、疲れ自身(ツモ牌)を呪ったり、疲れてしまう自分(手牌)を呪ったりすることは、とりあえずやめて、次の一手のことだけ考えた方が長期的にいいのではないか、というのが今の僕の疲れに対する基本戦略です。長期的にいい手を打ち続けたとき、短期的には参ったなと感じることもあるけど、それはそれで「たまたま」なのでいいよねと、解釈を転換する。

疲れを引いてきたとき、僕は皿洗いをして、自分の疲れがどれくらい深いか底を確かめています。そうすると10回に8回は表面的に疲れているだけだろうなということが分かる、そういうときは何もいじらないで普通に夜を過ごして、普通に寝る。10回に2回は底が見えない。つまりある程度疲れが深いと感じられる。2回の分からないときは、なるべくさっさと風呂に入ってさっさと休む。翌日の仕事も減らしてもらう。

その2回の重い疲れを恨まない。どの程度疲れているのかが完全に読みきれるような浅い疲ればかり回ってくるなら、それはもうちょっと汗流したほうがいいかも、と考える。ここらへんのさじ加減は個人の人生設計に基いてやったらいい。絶対失敗したくないし長生きしたい自分だったら、あらゆる疲れの可能性についてベタ降りすればいいけど、それはちょっと総じて失敗じゃないかとも思う。ある程度は積極的に疲れたい。でも、底の見えない疲れがきたらさっさとトンズラする。『逃げる』って強いですね。

それで僕は今日は疲れていたわけですけど、何とか日記の更新もできたし、部屋の片付けもしたし、それなりにうまくやれました。思い通りにはならない側面もたくさんありました。でも、これはこれでいいよね。

今日はおばあちゃんちでオデンをごちそうになりました。おいしかったです。

このおばあちゃんちには、腐女子であるところのいとこちゃん(姉)と、さらなる致命的な腐女子であるところのいとこちゃん(妹)の2人も住んでいて、今日はいとこちゃん(姉)が学業一段落して久しぶりに早く家に帰ってきいたので、ゲーム創りの話を聞いてもらっていました。

僕は基本的に何か物語を創作するときには突き詰めて考える、考えすぎる傾向にあります。(物語の創作以外の点では僕はかなり適当なので、これは僕の中でも特別な側面です。)なので、考えすぎて死んでしまわないよう、適当な頃合で外力によって沼から引き出してもらう必要があります。直接会えて、僕がこの子たちに話を聞くのは、マーケティングのためのリサーチとかじゃないです。ほとんどカウンセリングみたいなものです。話を聞いてもらってから返ってくる、自然な反応を自分の中に反響させて、腑に落ちるところを探す、ほとんど偶然に頼った自由散策みたいなものです。毎度毎度オッサンの話に付き合ってもらって、まことにありがたいことです。

今日はおおよそこんな話をしました。『僕は最近、ものすごく暗くて複雑な物語を書いたのだけど、これをどう出していいものか分からない。とりあえずは、開発スタッフの皆さんたちに見てもらうのだけど、その方々にも意図を理解してもらえるだろうかも、不安だ。複雑な話を、どう解釈可能な形に変換して提示すればいいのだろうか。そうやって話を要約するためには、自分がこの物語でいちばん大切なことが何なのか、なぜこの物語である必要があるのか、そういうことがちゃんと分かっていないといけない。そうやって動機までさかのぼって物語を創るのに、今回はずいぶん疲れてしまった。これでよかったのだろうか。』……今思うと完全に人生相談の域に入っていて、こんなん言われても困るやろうなというような話でした。

それに対して『じゃあ、なんでわざわざ複雑な話をしようと思ったのか、その動機は何なのか』と返されて、『そりゃもう、いくつもある自分の創作の可能性の中から一番のものを選んだからだ。尊敬するスタッフの人たちと一緒にゲームを創るなら、いくつもある中から自分にとって最高だと、そのときどきで信じるものを出さなければ失礼だ。凡庸なものは出せない。必ず一番ヤバいものを選ぶ』という答えを引き出されてしまったので、これでとりあえず僕は一沼抜け出せました。

そうだったなー、僕は割りと、こういう恥ずかしい話をするやつだったな……公式サイトもいくつかのバージョンをつくったけれども、一番好評だったのは、一番恥ずかしいやつだった。僕はこっちでいいんだな、逆説的だけど『シンプルに、複雑さを出していけばいい』んだな。

と、いうわけで、一番やばいクォータニオンの開発と、一番やばいXXXXの準備を今日も進めています。そこはかとなくご期待ください。

自宅のネットが死にました。

プロバイダー料金の引き落とし口座にお金を入れておいたつもりが入ってませんでした。「なんでや!ワイちゃんと振り込んだで!!」ってプロバイダーや銀行のサポセンに電話して原因を突き止めたところ……僕は同じ銀行のカードを2つもっていて、違う方の口座にお金を入れていたことに気づきました。

なぜ同じ銀行のカードを2枚持っていたかというと、もともと違う銀行のカードだったのが銀行が統廃合して同じ名前の銀行になっていたからです。

お、おれはメガバンクの闇に飲まれたんだ!とかなんとかいいながら、これからコンビニに白い紙持って払込みにいってきます。どう考えても自分のせいです。本当にありがとうございました。

ネットは明日復旧する予定です。

Web1.0始めました。

背景色などはブルースクリーンを彷彿とさせる懐かしい感じにしました。

今日はポテトチップス2袋と、黒い色のチョコレートを食べました。

おいしかったです。